大鳥井山遺跡
遺跡は横手市役所本庁舎から北東約2kmに位置し、横手市大鳥町・新坂町にあります。沖積面との比高約20mを測る小吉山、大鳥井山と称される2つの小独立丘陵上に立地しています。
この遺跡は『陸奥話記』により、清原氏の一族大鳥山太郎頼遠の本拠地と考えられ、安倍氏の鳥海柵とともに確実性が高い柵の1つです。頼遠は、清原武則の兄光頼の子に当たります。
昭和52年(1982)から7年にわたる発掘調査が行われ、小吉山東部(標高約75m)では、土塁・空堀が二重に巡る防御性の極めて強い柵であることが明らかとなっています。土塁・空堀は、外側から内側に向かって、土塁ー空堀ー土塁ー空堀の順で配され、この内側、すなわち居住域の外縁には柵列も作られています。柵に沿って物見櫓と考えられる小規模な建物も存在します。また外側の堀には土橋が架かる場所も検出されました。これら施設で画された内部には掘立柱建物跡や、竪穴住居跡などが作られており、掘立柱建物跡は1間×1間あるいは1間×2間と比較的小規模です。竪穴住居跡にはカマドはありませんでした。
遺跡の特徴は、『後三年合戦絵詞』の金沢柵の様子から当時のイメージができ、大鳥井柵跡が類似していると考えられます。また平泉の柳之御所遺跡の空堀との類似性が指摘されており、藤原氏が清原氏の技術を引き継いでいる可能性があることも注目されるところです。
出土遺物は、10世紀後半~12世紀代とやや幅がありますが、この間断絶することなく遺物の変遷を確認できることは非常に重要です。もちろん出羽国でこのような状況の遺物出土はなく、陸奥国においても、10世紀後半から特に11世紀代は資料の少ない時代であり、安倍氏・清原氏が当該地域を支配していた時期の資料として非常に貴重な存在といえるでしょう。これらの遺物は、10世紀代の払田柵との関係、11世紀代の奥羽の様相、12世紀代の藤原氏との関係を考える上でも重要な資料となっていくと思われます。
発掘の状況
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