増田の歴史
横手市増田町は、横手盆地の南東部に位置し、雄物川支流の成瀬川と皆瀬川の合流点に立地しています。南北朝時代に小笠原氏が増田に城を築き、その後城主となった土肥氏が関ヶ原の戦い(1600年)あたりまで統治していたとされます。
佐竹氏入部後の江戸時代以降には商業活動が盛んになったといわれ、寛永20(1643)年の開始と伝えられる増田の朝市は、現在に至るまで連綿と続いています。葉タバコや生糸は一時期秋田県内最大の産地となり、増田商人の多くはこれらを主力商品とし、増田は物資の集散地としてたいへん賑わいました。
明治時代になると、資金の投資先や社会構造が大きく変化します。増田においても同様で、結果として商業活動は活性化し、産業面に大きな発展が見られました。この時期に増田の商人は共同で増田銀行(現在の北都銀行の前身)を創設させたほか、増田水力電気会社(発電)や増田製陶会社(陶器)、長坂商店(味噌醤油)などの会社も設立されました。この傾向は大正時代になっても続き、吉乃鉱山の採掘量の増加もあいまって、商業活動は加速度的に活発化しました。
その商業活動の舞台となったのが現在の中町、七日町商店街通り(中七日通り)です。そして、当時の繁栄を今に伝えるものとなっているのが、短冊形で大規模な主屋と、「内蔵」と呼ばれる土蔵です。内蔵は、この地方独特の呼称ですが、主屋の背面に建てられ、土蔵そのものを鞘となる上屋で覆っています。雪害から保護するためにこのような造りになったともいわれ、雪国に広く所在しているとされます。 増田の内蔵が注目を集めるのは、通り沿いの狭い範囲に集中して立地し現存していることにあり、平成25年7月1日、この地区の約10.6haを横手市増田伝統的建造物群保存地区に指定し、まちなみ景観と建築様式や技術を維持しながら後世へ継承していく取り組みが行われています。
増田地区のまちなみや内蔵が現在のように注目されるまでの主な動きをまとめると以下のようになります。
年 | 主な動き |
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平成11年 |
増田町商工会(当時)が中七日通りを「くらしっくロード」と銘打つ |
平成13年 | 有限会社佐藤養助商店が漆蔵資料館の営業開始を、内蔵を公開 |
平成14年 |
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平成15年 | 文化財協会が内蔵の調査・写真撮影開始 |
平成17年 |
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平成18年 |
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平成19年 |
10月:写真集「増田の蔵」2冊目の刊行 |
平成20年 | 「歴史的建造物調査事業」実施 |
平成21年 | 中七日通りに観光案内所(蔵の駅)設置 |
平成22年 |
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平成23年 |
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平成24年 | 10月:写真集「増田の蔵」3冊目の刊行 |
平成25年 |
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実は増田の伝統的建造物が注目されるようになってから、まだ数年しか経っていません。この転機となったのは、平成17年の写真集「増田の蔵」の発刊であり、翌18年の「蔵の日」の開催であるように、地域住民主体となった活動が着実に、加速度化しながら保存と活用に向けて進んでいます。
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