清原氏と横手

ページ番号1003580  更新日 2021年9月28日

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写真:清原清衡(のちの藤原清衡)の銅像、清原家衡の銅像、清原武衡の銅像

前九年・後三年合戦年表

永承6年(1051)

秋田城介平繁成と陸奥守藤原登任とが安倍頼良を攻めるが、鬼切部で敗れる

康平5年(1062)

7月、源頼義が清原光頼と清原武則に援軍を要請する。後に、清原武則が一万余の兵を率いて陸奥国に向かう
8月16日、頼義・武則の軍を七陣に分ける。出羽から清原武則・清原武貞・清原武道・吉彦秀武・吉美候武忠(以上横手盆地の武将か)・橘貞頼・橘頼貞(以上秋田平野の武将か)
8月17日、深江是則・大友員季(以上平鹿郡の武将か)が小松柵を攻める

康平6年(1063)

2月27日、前九年合戦の論功行賞が行われ、清原武則が鎮守府将軍に任ぜられる
5月、安倍正任が清原頼遠(大鳥井柵)のもとに逃亡する

永保3年(1083)

秋、清原真衡が吉彦秀武を討つため出羽に出兵するが、清原清衡・家衡が清原真衡の館を襲撃する
秋、清原真衡が急死したため、源義家が奥六郡を清衡・家衡に分け与える

応徳3年(1086)

秋、清原家衡が兄清衡を殺害しようとする
冬、陸奥守源義家が清原家衡のいる沼柵を攻めるが、飢えと寒さで苦戦する

寛治元年(1087)

夏、清原武衡が家衡に加勢し、金沢柵に移る
秋、大軍を率いた源義家が金沢柵を攻めるが、戦いは長期化
秋、兵糧攻めにより金沢柵の城中は飢えに苦しむ
11月14日、金沢柵が陥落し、清原武衡が斬首される

長治2年(1105)

藤原清衡、中尊寺の造営に着手する

前九年・後三年合戦の主な登場人物

イラスト:安倍氏、清原氏、藤原氏系図

清原氏

現在の横手市に本拠地を置いた出羽山北の豪族。『元慶の乱』の際に都から来た清原令望の末裔ともいわれます。朝廷に服属した蝦夷を俘囚と呼び、清原氏が俘囚主と称されたり、その反面真人という天武天皇が定めた八色の姓の一つを持つなど、不明な点が多い系統でもあります。

清原光頼(きよはらのみつより)

出羽山北俘囚主と称される人物です。源頼義から『前九年の合戦』安倍氏との戦いの依頼を受けますが、弟武則を派遣し陸奥には出陣しませんでした。大鳥井柵にいた可能性が高いと思われます。

清原頼遠(きよはらのよりとお)

清原光頼の子で、大鳥山太郎頼遠と称されます。叔父清原武則が安倍氏を滅亡させた際に、出羽に逃亡した安倍正任を匿ったことで、武則とは別系統の一族ではないかとの考えもあります。

清原武則(きよはらのたけのり)

「前九年の合戦」で陸奥に一万の軍を率いた総大将です。安倍氏を滅ぼし、鎮守府将軍として出羽・陸奥に清原氏の影響力を創った人物です。本拠地に関しては、金沢柵・沼柵・真人城など諸説あります。

清原武貞(きよはらのたけさだ)

武則の子で、荒川太郎とも称されます。「前九年の合戦」の折、頼義・武則連合軍の第一陣で戦った人物です。安倍氏滅亡後、藤原経清夫人とその子清衡を引き取り、後に清原家衡が生まれることとなります。

清原真衡(きよはらのさねひら)

清原武貞の子で鎮守府将軍として清原氏の宗家的な位置にいました。子のない真衡が、後継者として清原氏内部からではなく、海道平氏(福島県いわき地方)出身の海道小太郎成衡を養子としたことが『後三年合戦』の原因の一つとなりました。

清原武衡(きよはらのたけひら)

父は清原武則で武貞の弟です。沼柵の戦いで家衡が義家を退けると、応援に駆けつけ金沢柵に移ることを勧めました。金沢柵陥落後、蛭藻沼に身を潜めていましたが、義家に発見され斬首されます。

清原家衡(きよはらのいえひら)

父は清原武貞・母は安倍氏の女です。清原氏の内紛で、はじめは兄清衡とともに真衡と争い、後に清衡と争いました。沼柵においては源義家を退けましたが、金沢柵で再び戦って兵糧攻めにあいます。陥落後、変装し逃亡を図りましたが、射殺されました。

清原清衡(きよはらのきよひら・のちの藤原清衡)

父は藤原経清。母は安倍氏の女です。「前九年の合戦」において、母とともに清原氏に入りました。真衡は母違いの兄、家衡は父違いの弟になります。「後三年合戦」後に実父の姓である藤原に姓をもどしましたが、清原氏の勢力を受け継いだことで、東北一円を勢力下に置くことができました。

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