沼柵

ページID1003579  更新日 2021年9月28日

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写真:沼柵と推定される蔵光寺と沼柵跡の石碑

沼柵の最有力候補・沼舘城跡

市役所雄物川庁舎から北へ約2キロメートルの距離にある沼館地区。沼柵が沼館地区にあったことは間違いないと思われますが、それがどの場所にあったのか、現在まで特定はできていません。沼舘城跡がその候補地として、今まで沼柵と考えられてきました。沼舘城跡は標高45m。雄物川の流れによって形成された河岸段丘上に立地しています。
当時の公家の日記である「康富記」には、沼柵の戦いの様子が記録されています。「清衡、太守に参り、此の歎きを訴え申すの間、自ら数千騎を率いて家衡が城沼柵に発向す。送ること数月、大雪に遇い、官軍、闘いの利失い、飢寒に及ぶ。軍兵多く寒死し、飢死す。或いは切りて馬肉を食い、或いは太守、人を懐いて温を得せしめ蘇生せしむ」とあり、清原家衡が源義家を退けた戦いであることがわかります。
また、「後三年合戦絵詞」には、清原武衡と家衡が沼柵で会談している場面が描かれており、陣営が沼柵から金沢柵へ移動したことが確認されます。現在まで、沼舘城跡内での発掘調査は行われていませんが、木戸五郎兵衛神社近くの千刈田遺跡では、永延3年(989)の銘がある和鏡が出土しています。残念ながら現在行方不明ですが、発見されれば国宝級と考えられています。10世紀末頃から11世紀のものと思われる鏡の所有者は、清原氏と関連ある人物の可能性が高いでしょう。

「沼柵」と「沼舘」

ところで、「柵」の読み方は一般的にサクですが、「吾妻鏡」や「太政官符」では柵に「楯」や「館」の字をあてたり、「色葉字類抄」では「柵(サク)城(タテ)也」と見られることから、柵はタテと読まれていた可能性があり、これらのことからも沼柵=沼舘の可能性が高いといえるかもしれません。
沼舘城跡周辺には、当時の地名と考えられる、沼舘・板杭・棒突・昼飯塚・作(柵)の瀬・出向・馬場などや、水に関係する地名として下谷地・西谷地・小谷地・桜木谷地・正願谷地・船沼・志戸ヶ池などの呼び名のほか、伝承も数多く残っています。

イラスト:松平定信が日本の宝をまとめた「集古十種」に掲載されている沼館出土の鏡、鏡表

イラスト:沼館出土の鏡、鏡裏

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