金沢柵

ページ番号1003578  更新日 2021年9月28日

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金沢柵と金沢城跡

写真:横手市指定文化財「戎谷南山筆『後三年合戦絵詞』」

金沢柵が横手地域の北端にある、金沢地区にあったことは間違いないと思われますが、それがどの場所にあったか現在まで特定はできていません。その候補地として金沢城跡があり、今まで金沢柵と考えられてきました。
金沢城跡は、奥羽山脈山麓から延びる丘陵上にあり、標高約90m。金沢柵の発見を目的とした調査は、昭和39~41、45、46年の五次にわたって、県と市教育委員会が実施し、調査総面積は11,218平方メートルにのぼりました。その結果、平安時代と中世の複合遺跡と確認されましたが、出土した遺物には「後三年合戦」当時のものはなく、金沢柵と断定できる材料を発見するには至りませんでした。
ただ、その前後の遺物として、本丸より9世紀後半から10世紀前半の須恵器甕の破片や、12世紀代の中国産の白磁の碗、常滑産の三筋文壺などが出土しています。また、一番多いものは中国製の青磁で、碗・皿・香炉・盤などが出土しており、14世紀後半から15世紀の年代と考えられます。
常滑産の三筋文壺は、出羽側ではほとんど出土例がなく、陸奥側で多く出土する傾向があります。この三筋文壺は大鳥井柵跡でも出土していることから、平泉の時代には金沢柵と大鳥井柵を藤原氏と関係の近い人物が利用していたことを示す資料であり非常に重要です。

陣館遺跡と金沢柵の関係

イラスト:大正13年に戎谷南山が描いた金沢柵鳥瞰図 城跡が孔雀の形に似ていることから孔城とも呼ばれている

「後三年合戦絵詞」は、もとになった絵巻が12世紀後半には成立していたと推定され、実際に戦いを見た人物からの伝聞によって描写された可能性も考えられます。平千任が金沢柵の櫓から源義家をののしる場面には、櫓が切岸に設置され、その高さが地面から5、6mほどの高さであることから、当時の状況を想定できる材料となるものです。金沢城跡のふもとにある陣館は、土塁と空堀と思われる遺構が確認され、標高、立地も大鳥井柵と類似することから、金沢柵と関係があるかもしれません。
周辺には、当時の地名と考えられる陣館、物見(斥候)山、西沼、蛭藻沼、御所野、陣ヶ森などの名称が残り、伝承も数多くあります。

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