後三年合戦とは?

ページID1003574  更新日 2021年9月28日

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写真:戎谷南山筆「後三年合戦絵詞」から01

後三年合戦は、清原氏が朝廷に対して反乱を企てたので、朝廷が源義家を遣わして、これを討った戦いとされることが多いようです。もともとは、清原一族の内部分裂で、相互の戦いの途中に陸奥守に赴任してきた源義家が介入することで、事が大きくなりました。
分裂していた清原氏の一方の側(清原清衡・吉彦秀武)に源義家が加担し、他方の側(清原武衡・家衡)を滅亡させた事件といわれ、このとき朝廷は、清原氏が反乱を企てたという認識はなく、源義家は翌年に陸奥守を解任されています。このことからも、「役」ではなく「合戦」というようになっています。
「後三年合戦」で勝利者の側についた清原氏の一方の側の中心人物が、平泉藤原氏の初代清衡であったことで、清衡は清原氏が有していた力を東北地方北部に発展的に継承することができました。
一方、朝廷は源義家の行動を私戦とみなしたので、東北地方に源氏の拠点を築くことはできませんでした。しかし、源義家を中心とする源氏の躍進はめざましく、「後三年合戦」は日本史における中世武家社会形成の要因と位置付けられています。 横手市を舞台に展開された、「後三年合戦」や清原氏の存在なくしては、平泉藤原氏の時代や源氏の時代はなかったということがいえるでしょう。

「後三年合戦」の名称はいつから

イラスト:戎谷南山筆「後三年合戦絵詞」から02

「後三年合戦」の前には、陸奥(岩手県北上盆地が中心)で源頼義・義家と安倍一族が戦った「前九年の合戦」がありました。『吾妻鏡』によれば「前九年の合戦」は、源頼義の陸奥守赴任から安倍氏滅亡までの12年間であったことから、もともとは「十二年合戦」と呼ばれていました。
「後三年合戦」の直後は、「義家の戦い」やその時の年号をとって「永保の戦い」などと呼ばれていたようです。実際には「後三年合戦」は源義家の陸奥守赴任から、清原武衡・家衡滅亡まで5年かかっており、沼柵の戦いと金沢柵の戦いは2年で終了しています。「後三年合戦」は3年間の戦いではなかったことになります。
前九年や後三年という名称が最初に確認されるのは、「保元物語」で「貞任宗任が乱にて前九年の合戦ありき。…武衡家衡を攻むるとき後三年の兵乱ありき」と見えることから、鎌倉時代末期のことです。「平家物語」に「頼義の九箇年の戦と義家の三年の戦いを合て十二の合戦とは申なり」とあり、十二年合戦の呼称が混同されて、「前九年の合戦」と「後三年合戦」となったようです。源頼義が鎮守府将軍に任命されてから安倍氏滅亡までが9年間ですから、12から9を引いて3になり、「前九年」と「後三年」という呼び名が表れました。

清原氏の確実な城柵は大鳥井柵だけ

イラスト:戎谷南山筆「後三年合戦絵詞」から03

「後三年合戦絵詞」で確認される柵は、金沢柵と沼柵ですが、未だにどこにあるか確定されていません。
「陸奥話記」で確認される大鳥井柵は、発掘調査によって空堀や土塁などの遺構や椀と小皿のセットとなった「かわらけ」(酒を酌み交わす際に使用されるもの)が出土したことにより、大鳥井山遺跡として史跡に指定されています。
しかし、金沢柵と沼柵は後三年合戦の当時のものがいまだ確認されていないことから、このあたりだろうという判断しかできないので、史跡にはなっていません。史跡になるためには、まずその時代の遺構と遺物を発見しなければなりません。

「後三年合戦絵詞」について

イラスト:戎谷南山筆「後三年合戦絵詞」から04

国重要文化財として東京国立博物館に所蔵されている「後三年合戦絵詞」は、貞和3年(1347)に作成されたものですが、そのもととなった絵巻は承安4年(1174)頃、後白河法皇の命により作られたともいわれています。
また、この詞書を書写したものが「奥州後三年記」といわれ、もともとの成立は、「後三年合戦」の終結からあまり隔たらない東北地方の人によって作られたとも言われています。その内容は清原(藤原)清衡が前半に多く記載され、後半の金沢柵の激戦部分には登場しなくなることから、本人が関わっている可能性も捨てきれません。

後三年の「役」?それとも「合戦」?

イラスト:戎谷南山筆「後三年合戦絵詞」から05

「広辞苑」によると「役」は(人民を役夫として徴発することからいう)戦争のことで、「国」対「朝廷に背く敵」との戦いという意味になります。一方、「合戦」は、敵・味方が出会って戦うことで、つまり、双方とも対等な立場にいるという意味で「後三年合戦」と言うのが正しい言い方です。

教科書での「後三年合戦」の表記

イラスト:戎谷南山筆「後三年合戦絵詞」から06

明治23年(1890)に出版された「稿本国史眼」という帝国大学国史学科の教科書では、「後三年合戦」は「後三年の役」と掲載されていました。その後の国定教科書においても広く使用され、明治30年以降はしばらく「役」で統一されていました。現在の教科書では「後三年合戦」の用語が使用されています。

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