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後三年合戦

 横手市教育委員会では、後三年合戦をキーワードに清原氏の城柵である金沢柵・沼柵・大鳥山(大鳥井柵)の解明によって、3柵の国指定と郷土遺産としてまちづくりに生かすことを目指し、「後三年合戦関連史跡保存整備計画策定調査事業」に取り組んでいます。 今年度は大学教授らによる指導委員会と検討会の指導・助言を仰ぎながら、教育委員会が所蔵する金沢城跡・大鳥井柵跡の遺物を再整理しました。その結果、大鳥井柵跡は十世紀後半から十二世紀という年代が想定されることがわかり、清原氏の胎動時期から奥州藤原氏の時期まで、出羽山北(横手)の歴史は陸奥と密接に関っていることがわかってきました。
柵内の様子

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 後三年合戦とその戦いの伏線となった前九年合戦をより深く理解したい方のための本の発刊をしております。
 本は、 平成21年7月にかまくら館で開催された後三年シンポジウムと3月の金沢柵公開の内容に研究者による対談を付け加えたもので、高志書院から平成23年12月10日に出版されました。市が監修し、一般の出版社から発売されるものですので通常の本と同じように書店や出版社HPなどをご利用いただきお買い求め下さい。市の施設では、後三年の役金沢資料館、かまくら館でお買い求めいただけます。
 
横手市監修 前九年・後三年合戦 高志書院刊

横手市監修 前九年・後三年合戦 高志書院刊

後三年合戦とは

 出羽の清原氏が朝廷に対して反乱を企てたので、朝廷は源義家を遣わして、これを討った戦いとされることが多いようです。まさしく『後三年の役』の言葉とおりで、朝敵の清原氏を源氏が討ったという見方が地元でも大方の考え方でしょう。佐竹氏が入部した際、先祖である新羅三郎義光が『後三年合戦』と関係があるので八幡神社を篤く崇拝したことから、この考え方も強いように思われます。しかし、実際には朝廷側には清原氏が反乱を企てたとの認識はなく、この戦いが決着した後の朝廷の態度も、源義家は私戦を行ったのであるから論功行賞の必要はないというものであり、源義家は陸奥守の職を解任されています。
 『後三年合戦』とは、もともとは清原氏一族の内部分裂に端を発して、相互に戦いを交えている時に、陸奥守として赴任してきた源義家が途中から介入し、分裂していた清原氏の一方の側に加担し、他方の側を滅亡させた事件といえます。
 それでは『後三年合戦』にはどのような歴史的意義があると考えられるでしょうか。
 ひとつは、源義家を中心とする源氏の発展にとって、『後三年合戦』は『前九年合戦』以上に意味があり、日本史にとって中世武家社会形成の要因となったことです。もうひとつは、『後三年合戦』で勝利者の側にまわることができた清原氏の一方の側の中心人物が、平泉藤原氏の初代清衡であったことです。朝廷は源義家の行動を私戦とみなしたので、東北地方に源氏の拠点を築くことはできませんでした。一方、清衡は清原氏が有していた力を発展的に継承しました。
 横手で展開した『後三年合戦』及び清原氏の存在をなくしては、平泉藤原氏の時代はなかったということがいえるでしょう。
雁行の乱れ

雁行の乱れ

金沢城と金沢柵

 金沢地区は横手市役所本庁の北約7キロに位置します。金沢柵は、金沢地区にあることは間違いないと思われますが、それがどの場所にあるか現在のところまだ特定はできていません。その候補地として金沢城跡があり、今までも金沢柵と考えられてきました。
 金沢城跡は奥羽山脈山麓から延びる丘陵上に立地し、標高は約91メートルあります。金沢柵の発見を目的とした調査は、昭和39~41・45・46年の5次にわたり、秋田県教育委員会と横手市教育委員会が発掘調査を実施し、調査総面積は11,218平方メートルです。
 その結果は平安時代と中世の複合遺跡で、金沢柵と断定できる材料を発見するには至りませんでした。この調査で出土した遺物で後三年の合戦当時のものはありませんでした。
 ただその前後の遺物として、本丸より9世紀後半から10世紀前半の須恵器甕の破片が、また12世紀代として白磁の碗、常滑三筋文壺などが出土しています。また一番多いものは青磁で碗・皿・香炉・盤などが出土しており、14世紀後半から15世紀の年代が与えられ、調査で検出した掘立柱建物跡からもこの時代の金沢城跡といえるでしょう。12世紀は後三年の合戦後の奥州藤原氏の時代です。周辺では経塚が多く確認され12世紀~13世紀のものです。
 『後三年合戦絵詞』は序文によって貞和3(1347)年に作成されていたことがわかりますが、そのもととなった絵巻が12世紀後半には成立していたと推定されています。金沢柵での合戦は11世紀末であるので、実際に戦いを見た人物からの伝聞によって描写された可能性も考えられそうです。そうであるとすると千任が金沢柵の櫓から源義家を罵倒する場面などで、櫓が切岸に設置され、その高さは地面より5~6mほどの高さであることから、当時の状況を想定できる材料となるものです。
 周辺には、当時の地名と考えられるものが残っており、陣館、物見(斥候)山、西沼、蛭藻沼、御所野、陣ヶ森などがあり、また伝承も数多く残っています。この中で金沢城跡の麓にある陣館は、土塁と空堀と思われる遺構が確認され、標高、立地も大鳥井柵と類似する点から注意が必要でしょう。

義家陣営の様子

義家陣営の様子

沼館城と沼柵

 沼館地区は横手市役所雄物川庁舎から北へ約2キロに位置します。沼柵は、沼館地区にあることは間違いないと思われますが、それがどの場所にあるか現在のところまだ特定はできていません。その候補地として沼館城跡があり、今までも沼柵と考えられてきたところです。沼館城跡は雄物川より二段高い河岸段丘上に立地し、標高は45mです。
 『康富記』において、沼柵の戦いの様子が記録されており、「清衡、太守に参り、此の歎きを訴え申すの間、自ら数千騎を率いて家衡が城沼柵に発向す。送ること数月、大雪に遇い、官軍、闘いの利失い、飢寒に及ぶ。軍兵多く寒死し、飢死す。或いは切りて馬肉を食い、或いは太守、人を懐いて温を得せしめ蘇生せしむ。」とあり、清原家衡が源義家を退けた戦いであることがわかります。
 『後三年合戦絵詞』では、清原武衡と家衡が沼柵で会談している場面が描かれており、沼柵から金沢柵へ移動したことが確認されます。沼館城跡内での発掘調査は行われていませんが、木戸(柵戸か?)五郎兵衛神社近くの千刈田遺跡では、永延三(989)年記年銘の和鏡が出土しています。(残念ながら現在行方不明ですが、発見されれば国宝でしょう。)10世紀末頃~11世紀におけるこの鏡の所有者を考えるとき、清原氏と関連のある人物の可能性が高いでしょう。
 ところで、「柵」の読み方は一般的にサクですが、『吾妻鏡』や『太政官符』(康平七年三月に十九日)では柵を楯や館の字をあてたり、『色葉字類抄』(三巻本中巻)では「柵(サク)城(タテ)也」と見られることから、柵はタテと読まれていた可能性があり、これらのことからも沼柵=沼舘の可能性が高いといえるかもしれません。
 周辺には、当時の地名と考えられるものが残っており、沼館・板杭・棒突・昼飯塚・作(柵)の瀬・出向・馬場などや水に関係する地名として下谷地・西谷地・小谷地・桜木谷地・正願谷地・船沼・志戸ヶ池などや伝承も数多く残っています。

沼柵推定地に建つ蔵光院

沼柵推定地に建つ蔵光院

文献に見る清原氏

康平五(1062)年七月
●源頼義の援軍要請に応じて、清原武則が一万余の兵を率いて陸奥国に向かう。
『陸奥話記』・・・出羽山北の俘囚主清原真人光頼・舎弟武則らを説きて、官軍に与力せしめんとす。光頼ら猶予して未だ決せず。将軍、常に贈るに奇珍を以てす。光頼・武則ら漸く以て許諾す。

康平五(1062)年八月十六日
●頼義・武則の軍を七陣に分けて押領使を定める。
『陸奥話記』・・・同十六日、諸陣の押領使を定む。清原武貞を一陣と為す。武則が子なり。橘貞頼を二人と為す。武則が甥なり、字は志万太郎。吉彦秀武を三陣となす。武則が甥にしてまた聟なり、字は荒川太郎。橘頼貞を四陣と為す。貞頼が弟なり、字は新万次郎。源頼と頼義を五陣と為す。五陣の中、また三陣に分かつ。一陣は将軍、一陣は武則真人、一陣は国内の官人らなり。吉美侯武忠を六陣と為す。字は班目四郎。清原武道を七陣と為す。字は貝沢三郎。

康平六(1063)年二月二十七日
●前九年合戦の論功賞が行われ、清原武則が鎮守府将軍に任ぜられる。
『百錬抄』・・・二十七日、貞任を追討せる賞を行わる。源頼義は正四位下に叙し、伊予守に任じ、一男義家は出羽守に任じ、二男義綱は左衛門尉に任ず。散位武則は一階を叙し、鎮守府将軍に任ず。

康平六(1063)年五月
●安倍正任が出羽の清原頼遠のもとに逃亡する。
『陸奥話記』・・・正任は初め出羽の光頼が子、字は大鳥山太郎頼遠の許に隠る。

永保三(1083)年夏ごろ
●清原真衡が吉彦秀武と対立して出羽に出兵するが、清原清衡・家衡は秀武に加勢する。
『奥州後三年記 上』・・・永保のころ、奥六郡がうちに清原真衡といふものあり。荒河太郎武貞が子、鎮守府将軍武則が孫なり~又秀武がもとへもゆかんとて、いくさだちすることはかりなし。

永保三(1083)年秋ごろ
●清原真衡が吉彦秀武を討つため再び出羽に出兵するが、清原清衡・家衡が清原真衡の館を襲撃する。
『奥州後三年記 上』・・・真衡、国司を饗応しをはりて奥へかへりて、なお本意をとげんために秀武をせめんとす~清ひら・家ひら、よせきたり。すでにたたかふ。

永保三(1083)年秋ごろ?
●清原真衡が急死したため、源義家が奥六郡を清衡・家衡に分け与える。
『康富記』・・・此の間、真衡、出羽に発向せる路中に病に侵されて頓死し了んぬ。この後、清衡・家衡、太守に対いて野心を存せず、死亡せる重光、逆臣たる由、これを陳ぶ。降を請うの間、太守、これを免じ許す。六郡を割分して、各三郡、充てて清衡・家衡に補せらる。

応徳三(1086)年秋ごろ?
●清原家衡が兄清衡を殺害しようとする。
『康富記』・・・家衡、兄清衡を讒り申すと雖も、太守、許さざるなり。つさえ清衡に抽象有るの間、家衡、清衡の館に同居せしむるの時、密かに青侍に謀り、青侍、清衡を害せんと欲す。清衡、先にこれを知り、叢中に隠れ居る処、家衡、火を放ち清衡の宿所を焼き払い、忽ちに清衡の妻子・眷属を殺害し了んぬ。

応徳三(1086)年冬ごろ
●陸奥守源義家が沼柵を攻めるが、飢えと寒さで苦戦する。
『康富記』・・・清衡、太守に参り、此の嘆きを訴え申すの間、自ら数千騎を率いて家衡が城沼柵に発行す。送ること数月、大雪に遇い、官軍、闘いの利を失い、飢寒に及ぶ。軍兵多く寒死し、飢死す。或いは切りて馬肉を食い、或いは太守、人を懐いて温を得せしめ蘇生せしむ。

寛治元(1087)年夏ごろ?
●清原武衡が家衡に加勢し、金沢柵に移る。
『奥州合戦絵詞 上』・・・武衡は、国司追帰されにけりとききて、陸奥国より勢をふるひて、出羽へこえて、家衡がもとに来ていふやう~二人あいぐして沼柵をすてて、金沢にうつりぬ。

寛治元(1087)年秋ごろ?
●大軍を率いた源義家が金沢柵を攻めるが、戦いは長期化する。
『奥州合戦絵詞 上』・・・国司、武衡あひくははりぬとききて、いよいよいかる事かぎりなし。

寛治元(1087)年秋ごろ?
●兵糧攻めにより金沢柵の城中は飢えに苦しむ。
『奥州合戦絵詞 中』・・・吉彦秀武、将軍に申様、城の中かたく守て、御方の軍、すでになづみ侍にたり~これをみて、長く城の戸をとぢて、かさねてくだる者なし。

寛治元(1087)年11月14日
●金沢柵が陥落し、清原武衡が斬首される。
『奥州合戦絵詞 下』・・・藤原の資道は、将軍のことに身したしき郎等なり~武衡・家衡が郎等どもの中に、むねとあるともがら四十八人がくびをきりて将軍の前にかけたり。
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引用文献
横手市教育委員会2006『清原のかわらけ』横手市教育委員会・後三年合戦(役)史跡検討会
横手市2006『横手市史』史料編 古代・中世
工藤雅樹2005『平泉への道』雄山閣 

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