後三年の役とは

戎谷南山筆「後三年合戦絵詞」から01

後三年合戦は、清原氏が朝廷に対して反乱を企てたので、朝廷が源義家を遣わして、これを討った戦いとされることが多いようです。もともとは、清原一族の内部分裂で、相互の戦いの途中に陸奥守に赴任してきた源義家が介入することで、事が大きくなりました。
分裂していた清原氏の一方の側(清原清衡・吉彦秀武)に源義家が加担し、他方の側(清原武衡・家衡)を滅亡させた事件といわれ、このとき朝廷は、清原氏が反乱を企てたという認識はなく、源義家は翌年に陸奥守を解任されています。このことからも、「役」ではなく「合戦」というようになっています。
『後三年合戦』で勝利者の側についた清原氏の一方の側の中心人物が、平泉藤原氏の初代清衡であったことで、清衡は清原氏が有していた力を東北地方北部に発展的に継承することができました。
一方、朝廷は源義家の行動を私戦とみなしたので、東北地方に源氏の拠点を築くことはできませんでした。しかし、源義家を中心とする源氏の躍進はめざましく、『後三年合戦』は日本史における中世武家社会形成の要因と位置付けられています。 横手市を舞台に展開された、『後三年合戦』や清原氏の存在なくしては、平泉藤原氏の時代や源氏の時代はなかったということがいえるでしょう。

戎谷南山筆「後三年合戦絵詞」から02

「後三年合戦」の名称はいつから
「後三年合戦」の前には、陸奥(岩手県北上盆地が中心)で源頼義・義家と安倍一族が戦った「前九年の合戦」がありました。『吾妻鏡』によれば「前九年の合戦」は、源頼義の陸奥守赴任から安倍氏滅亡までの12年間であったことから、もともとは「十二年合戦」と呼ばれていました。
「後三年合戦」の直後は、「義家の戦い」やその時の年号をとって「永保の戦い」などと呼ばれていたようです。実際には「後三年合戦」は源義家の陸奥守赴任から、清原武衡・家衡滅亡まで5年かかっており、沼柵の戦いと金沢柵の戦いは2年で終了しています。『後三年合戦』は3年間の戦いではなかったことになります。
前九年や後三年という名称が最初に確認されるのは、『保元物語』で「貞任宗任が乱にて前九年の合戦ありき。…武衡家衡を攻むるとき後三年の兵乱ありき」と見えることから、鎌倉時代末期のことです。『平家物語』に「頼義の九箇年の戦と義家の三年の戦いを合て十二の合戦とは申なり」とあり、十二年合戦の呼称が混同されて、「前九年の合戦」と「後三年合戦」となったようです。源頼義が鎮守府将軍に任命されてから安倍氏滅亡までが9年間ですから、12から9を引いて3になり、『前九年』と『後三年』という呼び名が表れました。

戎谷南山筆「後三年合戦絵詞」から03

清原氏の確実な城柵は大鳥井柵だけ
『後三年合戦絵詞』で確認される柵は、金沢柵と沼柵ですが、未だにどこにあるか確定されていません。
『陸奥話記』で確認される大鳥井柵は、発掘調査によって空堀や土塁などの遺構や椀と小皿のセットとなった『かわらけ』(酒を酌み交わす際に使用されるもの)が出土したことにより、確実性が高い史跡とすることができます。
しかし、金沢柵と沼柵は後三年合戦の当時のものがいまだ確認されていないことから、このあたりだろうという判断しかできないので、史跡にはなっていません。史跡になるためには、まずその時代の遺構と遺物を発見しなければなりません。

戎谷南山筆「後三年合戦絵詞」から04

『後三年合戦絵詞』について
国重要文化財として東京国立博物館に所蔵されている『後三年合戦絵詞』は、貞和3年(1347)に作成されたものですが、そのもととなった絵巻は承安4年(1174)頃、後白河法皇の命により作られたともいわれています。
また、この詞書を書写したものが『奥州後三年記』といわれ、もともとの成立は、『後三年合戦』の終結からあまり隔たらない東北地方の人によって作られたとも言われています。その内容は清原(藤原)清衡が前半に多く記載され、後半の金沢柵の激戦部分には登場しなくなることから、本人が関わっている可能性も捨てきれません。

戎谷南山筆「後三年合戦絵詞」から05

「役」と「合戦」の違い
『広辞苑』によると「役」は(人民を役夫として徴発することからいう)戦争のことで、「国」対「朝廷に背く敵」との戦いという意味になります。一方、「合戦」は、敵・味方が出会って戦うことで、つまり、双方とも対等な立場にいるという意味です。

戎谷南山筆「後三年合戦絵詞」から06

「後三年の役」の言葉はいつから
明治23年(1890)に出版された『稿本国史眼』という帝国大学国史学科の教科書が最初のようです。その後の国定教科書に広く使用され、明治30年以降は「役」で統一されて、今日まで使用されています。

大鳥井山遺跡

横手市の発掘調査により二重の土塁と空堀が確認され、防御性の高い構造となっていることが判明した

清原氏の本拠地として確実視
大鳥井山柵跡は、市役所本庁舎から北東約2㎞の横手市大鳥町にあり、小吉山、大鳥井山、台処館と称される三つの丘陵の上にあります。
この遺跡は『陸奥話記』により、清原氏の一族大鳥太郎頼遠の本拠地と考えられ、安倍氏の鳥海柵とともに確実性が高い城柵のひとつです。
昭和52年から7年にわたる発掘調査が行われ、小吉山東部(標高約75m)での調査により、土塁・空堀が二重に巡る防御性の極めて高い城柵であることが明らかになっています。土塁・空堀の内側、すなわち居住域の外縁には柵列も作られています。また、柵に沿って物見櫓と考えられる建物も存在し、外側の堀には土橋が架かる場所も検出されました。これらの施設で区画された内部には掘立柱建物跡や、竪穴住居跡などが作られており、掘立柱建物跡は、1間×1間または1間×2間と比較的小規模です。竪穴住居跡にはカマドはありませんでした。

儀式や宴会で使われたと見られる椀や小皿などの須恵器(いわゆる「かわらけ」)

平泉の国史跡・柳之御所跡と類似点
大鳥井柵の遺跡の特徴は、『後三年合戦絵詞』の金沢柵の様子からイメージできる当時の柵と大鳥井柵跡が類似しています。また、平泉の国史跡柳之御所跡(藤原氏の政庁跡と推定される遺跡)の空堀との類似性が指摘されており、藤原氏が清原氏の技術を引き継いでいる可能性があることも注目されます。
遺物は、椀と小皿のセットとなった『かわらけ』が300点近く出土しており、全国的にもこの時代のものがまとまって見つかった例はほとんどありません。その他に、中国製の白磁器・硯などが出土しています。硯はほぼ完全な形で出土しており、柳之御所跡でも同様のものが発見されています。その精巧な作りから、藤原氏の存在も見え隠れします。

平泉の国史跡柳之御所跡から出土したものと瓜二つの中国製と見られる石硯 金沢柵や沼柵の解明のカギとなる遺跡
遺跡の時期は10世紀後半から12世紀代とやや幅がありますが、この間断絶することなく遺物を確認できることから、200年近く継続して使用されていた柵ということがわかります。大鳥井柵跡は、文献と考古資料の整合性のある遺跡であり、その解明が、金沢柵と沼柵にもつながるものと期待しています。
その歴史的価値が認められ、平成22年2月22日に国指定史跡に指定されています。

金沢藩

横手市指定文化財「戎谷南山筆『後三年合戦絵詞』」

金沢柵と金沢城跡
金沢柵が横手地域の北端にある、金沢地区にあったことは間違いないと思われますが、それがどの場所にあったか現在まで特定はできていません。その候補地として金沢城跡があり、今まで金沢柵と考えられてきました。
金沢城跡は、奥羽山脈山麓から延びる丘陵上にあり、標高約90m。金沢柵の発見を目的とした調査は、昭和39~41、45、46年の五次にわたって、県と市教育委員会が実施し、調査総面積は11、218㎡にのぼりました。その結果、平安時代と中世の複合遺跡と確認されましたが、出土した遺物には『後三年の合戦』当時のものはなく、金沢柵と断定できる材料を発見するには至りませんでした。
ただ、その前後の遺物として、本丸より9世紀後半から10世紀前半の須恵器甕の破片や、12世紀代の中国産の白磁の碗、常滑産の三筋文壺などが出土しています。また、一番多いものは中国製の青磁で、碗・皿・香炉・盤などが出土しており、14世紀後半から15世紀の年代と考えられます。
常滑産の三筋文壺は、出羽側ではほとんど出土例がなく、陸奥側で多く出土する傾向があります。この三筋文壺は大鳥井柵跡でも出土していることから、平泉の時代には金沢柵と大鳥井柵を藤原氏と関係の近い人物が利用していたことを示す資料であり非常に重要です。

大正13年に戎谷南山が描いた金沢柵鳥瞰図 城跡が孔雀の形に似ていることから孔城とも呼ばれている

陣館遺跡と金沢柵の関係
『後三年合戦絵詞』は、もとになった絵巻が12世紀後半には成立していたと推定され、実際に戦いを見た人物からの伝聞によって描写された可能性も考えられます。平千任が金沢柵の櫓から源義家をののしる場面には、櫓が切岸に設置され、その高さが地面から5、6mほどの高さであることから、当時の状況を想定できる材料となるものです。金沢城跡のふもとにある陣館は、土塁と空堀と思われる遺構が確認され、標高、立地も大鳥井柵と類似することから、金沢柵と関係があるかもしれません。
周辺には、当時の地名と考えられる陣館、物見(斥候)山、西沼、蛭藻沼、御所野、陣ヶ森などの名称が残り、伝承も数多くあります。

沼柵

沼柵と推定される蔵光寺と沼柵跡の石碑

沼柵の最有力候補・沼舘城跡
市役所雄物川庁舎から北へ約2㎞の距離にある沼館地区。沼柵が沼館地区にあったことは間違いないと思われますが、それがどの場所にあったのか、現在まで特定はできていません。沼舘城跡がその候補地として、今まで沼柵と考えられてきました。沼舘城跡は標高45m。雄物川の流れによって形成された河岸段丘上に立地しています。
当時の公家の日記である『康富記』には、沼柵の戦いの様子が記録されています。「清衡、太守に参り、此の歎きを訴え申すの間、自ら数千騎を率いて家衡が城沼柵に発向す。送ること数月、大雪に遇い、官軍、闘いの利失い、飢寒に及ぶ。軍兵多く寒死し、飢死す。或いは切りて馬肉を食い、或いは太守、人を懐いて温を得せしめ蘇生せしむ」とあり、清原家衡が源義家を退けた戦いであることがわかります。
また、『後三年合戦絵詞』には、清原武衡と家衡が沼柵で会談している場面が描かれており、陣営が沼柵から金沢柵へ移動したことが確認されます。現在まで、沼舘城跡内での発掘調査は行われていませんが、木戸五郎兵衛神社近くの千刈田遺跡では、永延3年(989)の銘がある和鏡が出土しています。残念ながら現在行方不明ですが、発見されれば国宝級と考えられています。10世紀末頃から11世紀のものと思われる鏡の所有者は、清原氏と関連ある人物の可能性が高いでしょう。

「沼柵」と「沼舘」
ところで、「柵」の読み方は一般的にサクですが、『吾妻鏡』や『太政官符』では柵に「楯」や「館」の字をあてたり、『色葉字類抄』では「柵(サク)城(タテ)也」と見られることから、柵はタテと読まれていた可能性があり、これらのことからも沼柵=沼舘の可能性が高いといえるかもしれません。
沼舘城跡周辺には、当時の地名と考えられる、沼舘・板杭・棒突・昼飯塚・作(柵)の瀬・出向・馬場などや、水に関係する地名として下谷地・西谷地・小谷地・桜木谷地・正願谷地・船沼・志戸ヶ池などの呼び名のほか、伝承も数多く残っています。

松平定信が日本の宝をまとめた「集古十種」に掲載されている沼館出土の鏡、鏡表 沼館出土の鏡、鏡裏

清原氏と横手

前九年・後三年合戦年表

永承6年(1051)
秋田城介平繁成と陸奥守藤原登任とが安倍頼良を攻めるが、鬼切部で敗れる

康平5年(1062)
7月、源頼義が清原光頼と清原武則に援軍を要請する。後に、清原武則が一万余の兵を率いて陸奥国に向かう
8月16日、頼義・武則の軍を七陣に分ける。出羽から清原武則・清原武貞・清原武道・吉彦秀武・吉美候武忠(以上横手盆地の武将か)・橘貞頼・橘頼貞(以上秋田平野の武将か)
8月17日、深江是則・大友員季(以上平鹿郡の武将か)が小松柵を攻める

康平6年(1063)
2月27日、前九年合戦の論功行賞が行われ、清原武則が鎮守府将軍に任ぜられる
5月、安倍正任が清原頼遠(大鳥井柵)のもとに逃亡する

永保3年(1083)
秋、清原真衡が吉彦秀武を討つため出羽に出兵するが、清原清衡・家衡が清原真衡の館を襲撃する
秋、清原真衡が急死したため、源義家が奥六郡を清衡・家衡に分け与える

応徳3年(1086)
秋、清原家衡が兄清衡を殺害しようとする 
冬、陸奥守源義家が清原家衡のいる沼柵を攻めるが、飢えと寒さで苦戦する

寛治元年(1087)
夏、清原武衡が家衡に加勢し、金沢柵に移る
秋、大軍を率いた源義家が金沢柵を攻めるが、戦いは長期化
秋、兵糧攻めにより金沢柵の城中は飢えに苦しむ
11月14日、金沢柵が陥落し、清原武衡が斬首される

長治2年(1105)
藤原清衡、中尊寺の造営に着手する

前九年・後三年合戦の主な登場人物

■清原氏
現在の横手市に本拠地を置いた出羽山北の豪族。『元慶の乱』の際に都から来た清原令望の末裔ともいわれます。朝廷に服属した蝦夷を俘囚と呼び、清原氏が俘囚主と称されたり、その反面真人という天武天皇が定めた八色の姓の一つを持つなど、不明な点が多い系統でもあります。

■清原光頼(きよはらのみつより)
出羽山北俘囚主と称される人物です。源頼義から『前九年の合戦』安倍氏との戦いの依頼を受けますが、弟武則を派遣し陸奥には出陣しませんでした。大鳥井柵にいた可能性が高いと思われます。

■清原頼遠(きよはらのよりとお)
清原光頼の子で、大鳥山太郎頼遠と称されます。叔父清原武則が安倍氏を滅亡させた際に、出羽に逃亡した安倍正任を匿ったことで、武則とは別系統の一族ではないかとの考えもあります。

■清原武則(きよはらのたけのり)
『前九年の合戦』で陸奥に一万の軍を率いた総大将です。安倍氏を滅ぼし、鎮守府将軍として出羽・陸奥に清原氏の影響力を創った人物です。本拠地に関しては、金沢柵・沼柵・真人城など諸説あります。

■清原武貞(きよはらのたけさだ)
武則の子で、荒川太郎とも称されます。『前九年の合戦』の折、頼義・武則連合軍の第一陣で戦った人物です。安倍氏滅亡後、藤原経清夫人とその子清衡を引き取り、後に清原家衡が生まれることとなります。

■清原真衡(きよはらのさねひら)
清原武貞の子で鎮守府将軍として清原氏の宗家的な位置にいました。子のない真衡が、後継者として清原氏内部からではなく、海道平氏(福島県いわき地方)出身の海道小太郎成衡を養子としたことが『後三年合戦』の原因の一つとなりました。

■清原武衡(きよはらのたけひら)
父は清原武則で武貞の弟です。沼柵の戦いで家衡が義家を退けると、応援に駆けつけ金沢柵に移ることを勧めました。金沢柵陥落後、蛭藻沼に身を潜めていましたが、義家に発見され斬首されます。

■清原家衡(きよはらのいえひら)
父は清原武貞・母は安倍氏の女です。清原氏の内紛で、はじめは兄清衡とともに真衡と争い、後に清衡と争いました。沼柵においては源義家を退けましたが、金沢柵で再び戦って兵糧攻めにあいます。陥落後、変装し逃亡を図りましたが、射殺されました。

■清原清衡(きよはらのきよひら・のちの藤原清衡)
父は藤原経清。母は安倍氏の女です。『前九年の合戦』において、母とともに清原氏に入りました。真衡は母違いの兄、家衡は父違いの弟になります。『後三年合戦』後に実父の姓である藤原に姓をもどしましたが、清原氏の勢力を受け継いだことで、東北一円を勢力下に置くことができました。

お問合せ


横手市役所
交通アクセス
〒013-8601 秋田県横手市中央町8番2号
電話番号:0182-35-2111(代表)
ファックス:0182-35-2221
メールアドレス:koho@city.yokote.lg.jp